掌を空に翳し、目を細めてきた青春の日々よ。
お久しぶりです。
なんだかんだ更新するのは1年以上振りかと思います。
皆様お元気でしょうか。
僕のTwitterを古くから知る人、
もっと言えば「カメ止め」旋風から知る人なんかは、
僕のことをもう泡沫の空へと消えたなんて思う方もいるんじゃないかなって思います。
最近は、
というか最新の更新あたりまではエッセイ調が多かったので、
話し言葉というか、自分の喋りのように書くことが本当に久しぶりだなって。
そして、新年になりました。
今年は2023年のようです。
ということは、今年で23歳ですね。早生まれなので実質24歳ですけど。
昨年は、何してたんだっけ?というくらい、あっという間に過ぎた気がします。
多分今後も言い続けるんでしょうけど。
去年は、学校を卒業しました。
卒業するまで僕は無冠でしたね。
今となっては、懐かしい思い出だなって思います。
学生時代は、随分自由にやらせてもらったなって思います。
今思うと、まあ多方面に迷惑かけてたなぁと。
だからこそ、今に繋がってるのかなって思うこともしばしばあるんですけど(. .)
本当にあの頃に支えてくださった先生方や、関係者の方々ありがとうございました。
4月からは社会人として、都内のゲーム会社に就職しました。
何故か今も関西にいるんですけど、ここは一旦置いておきます。
さて、昨年の12月には「極道系Vチューバー達磨」が公開されました。
僕はVTuber部分だったり、ゲーム監修として参加させていただきました。
上映していただいた、cinemaKOBEさん・シアターセブンさん本当にありがとうございました。
クリスマスイブから始まった、シアターセブンさんの上映では、
1日を除き全日程舞台挨拶に登壇させていただきました。
予定がないところに関しても、登壇させていただきました…!
職業柄、中々生の反応を間近で見る機会ってなくて、
映画館で感想を伝えてくれることがなんというか新鮮な気持ちだったんですよね。
それこそ、全日程MCとして立っていて、
内心役者でもなければ、監督でもない僕がここまで出るのもどうなのかなぁって思うこともしばしばありました。
でも、その度に、お客様から普段は司会業でもしているのかだったり、喋りが上手すぎるなど、本当に心温まる言葉を頂戴することが多く、本当にうれしい気持ちでいっぱいでした。
僕自身、100点満点の舞台挨拶って、僕の中では無くて、もっと会話広げたかったなとか、もっとこの人に回してあげたいとか、もっと裏話多くしたいけどバランスがなとか、実は舞台上で色々考えてました。
毎回どういうプランで行こうかなとか考えるんですけど、
結局、その場任せで回すしかないなってなっちゃって、
結果として、ああいう形の舞台挨拶になりました。
それこそ、たまにいじり過ぎたなとか、
お前は芸人か!っていうくらい考えてました。
でも、結構僕の中で、いつか舞台挨拶やりたいなっていう夢があったんですよね。
それはやっぱり、学生の頃に散々追いかけてきた映画がそうでしたし、
何より、全日程立とうと決めたのも、
カメ止め時代の曽我さんを見てきたからこそだったんですよね。
観ている側だった僕は凄く嬉しかったし、
舞台挨拶って、映画に対する付加価値が生まれるって思ってるんですよね。
時期的にも年末で、忙しい中時間を作ってきてくれてる人達に、
少しでも何か残ればいいなって思っていました。
観に来てくれた方々、何か残りましたかね?(笑)
それこそ、
役者でもない僕がサインを書かせていただけるのも、
なんか色々と感慨深いなぁと思ってました。
劇場にも、自分の書いたポスターが飾られていて、
数年前の僕が見たら、きっと信じられないだろうなって思います。
当然、ここに来るまでは色々な事がありました。
それは、この作品のことに限らず、
僕自身のことでも本当に多くの出来事と歩いてきたと思います。
沢山の人と出会って、別れて、
過去の自分が嫌っていたものを身に着けてきました。
あの尖っていた高校時代、
あのしんどい思いした中学時代、
あの上手くいかなかった専門学生時代、
あのイップスになった社会人野球時代、
その時々の僕が、今の僕を見てどう思うのか分からないけど、
少なくとも、お前らのお陰で、こんなにいい景色を見ることができた。
お前らが頑張って転んで、道を舗装してくれたから、
ただ起き上がって歩くことができたと、そう思っています。
時には、別作品の制作中に、発作のように死にたくなったり、
逃げたくなるし、
立ち直られへんようなこともありました。
でも、それでもやっぱり踏ん張って立ち上がることができたのは、
いつか、違う景色を見られると、信じていたからかなと、僕はそう思います。
今回の映画で、涙を流していた人は、
きっと、僕らと似たような境遇やったり、
或いは、大きな壁があって、立ち上がれなかったり、
起き上がりたくなかったり、
もしかすると、自分にはもう無理だと思って、
年齢や環境のせいにして、ここらへんでいいと感じている人なんじゃないかって思います。
いや、まだできるやろ。
そんなもんじゃない。まだ立ち上がれるやろと、僕は今もそう思ってます。
他人の目は気になるし、
しんどいことだらけだけど、
でも、違う景色を見て、
ここまで来たぞって叫べるように、
またここから、舞台挨拶で頭を下げたあの日から、
僕は進んで行ければいいなと思います。
楽しそうにしてる奴らを、
目を細めて見ていた僕が、
次は細められる側になることを願って、
肩肘張らず、やっていければいいなと思います。
極道系Vチューバー達磨、本当にありがとうございました。
また、何処かで。
これは再生の物語。【100日間生きたワニ感想】
※この内容には、一部ネタバレを含む場合があります。
また、個人的な感想のため、これが正解とかは一切思ってません。
人によって、合う合わないはあるからね(:3 」 ∠)
今最も話題になっている、100日間生きたワニを観た。
久しぶりの映画館で、何を観ようかなぁと思っていたところ、たまたま時間がマッチしたこともあり、観てみたわけだ。
監督も上田慎一郎監督とふくだみゆき監督ということで、まあ観るかぁといった感じ。
正直、乗り気ではなかった。
どうせなら、ゴジラとか、ブラックウィドウとか、ポップコーンとコーラが美味しくなる映画を観て、気分良く帰りたいところだった。
そんなことを思いながら観たのだが、鑑賞後の感想は、
「え、これで叩かれるなら、君たちハリウッドとか、ぬるぬる動く高画質のアニメ映画だけが映画だと思ってないかい?」
だった。
とどのつまり、レビューは当てにならず、結局自分で映画館で噛んでみて正解だった。
原作自体は、ある程度リアルタイムで追っていて、100日目もエモいなぁと思いながら読んでいた。
映画自体は、そこから始まるのだが、原作を前半でおさらいしつつ、後半でその後を描くという分かりやすい構図。
これを60分でやってるので、不要な要素を省かないと描き切れないだろうなぁと思った。
ネットに転がっているレビューを抜粋すると以下の通りで、
・紙芝居
・動かない
・カエル
・電通
・作画崩壊
ざっとこんな感じだろうか。
あくまでも個人の主観でしかないため、僕が見て感じたものや、考察なども交えていきたい。
紙芝居レビューについて
最近のアニメ映画は、作画が本当に綺麗で、目が疲れるくらい綺麗なものが主流になっている。
ヴァイオレットエヴァーガーデン・シンエヴァ・新海誠作品・・・
上げだすとキリがないのだが、こういった映画は、カットの切り替えが多かったり、アニメーションがぬるぬる動いたり、ライティングだったり、フォトリアルな表現が多いわけだ。
一方、100ワニは、原作のきくちゆうき先生のテイストに寄せている。
寄せているというか、まんまだ。
それが故に、確かに画に迫力がなくなってしまうのは仕方のないことで、いい意味でも悪い意味でも、観ている側の目が肥えてしまったように思える。
個人的には、このテイストの映画を観ることで、むしろ気軽に観ることができた。
ほのぼのした感じも、あたしンちとか、そういったものを彷彿とさせる。
そのため、「動かない」や、「紙芝居」というのはそういったところなのかなと感じた。
(むしろいきなり高画質のライティングとか、カットバンバン入れてたら、全く別物になってしまうので、原作を蔑ろにしてしまう。)
オリジナルキャラクターカエルについて
後半から登場する100日後のお話の軸になるカエル。
キャラクターとしては、大半が「ウザい」と思ってしまうような役どころで、チラホラとこのカエルを好きになれるかどうかで、変わってくるというレビューも見た。
これについては、後程詳しく記述するが、上田監督作品の特徴を知ると、ワニとカエルの関係性というか、カエルを導入したのかが見えてくるのではと思う(あくまでも主観)。
作画崩壊について
レビューでよく見たのだが、特別気になるような箇所はなかった。
作画崩壊だらけという人は、多分きくちゆうき先生のテイストというか、描き方がもしかすると合わないことが原因かもしれない。
構図も似たようなものばかりというのも、原作準拠で描いており、キャラクターの日常を切り取る物語であるため、構図が似て当然かなと思える。
むしろ、要所要所で、実写のカメラワークを導入しており、前半でも後半でも登場する山道のツーリングは、演劇の上手下手を活かして、ネズミ自身も100日後から、あのワニとの思い出に戻るという演出を凝らしているのではと思っている。
というか、多分実写のカメラワークに全体的に寄せているため、あの構図になるんじゃないかなぁと思う。
(しかもふくだ監督アニメーション監督だし、そのへん気を付けてると思うんだけどどうなんでしょう)
上田監督作品の特徴「再生」
上田監督の過去作は、大半以上で何かしらの再生を取り扱っている。
「恋する小説家」では、ヒロインを通じた主人公の小説家としての再生。
「カメラを止めるな!」では、家族の再生や、映画監督としての再生。
「スペシャルアクターズ」では、主人公の再生。
と、とにかく再生が多いのだ。
それ故に、今回も実は「再生」が取り扱われている。
その「再生」のキーマンとなるのが、先ほど登場した「カエル」なのだ。
上田監督作品には、不器用なキャラクターが必ず出てくる。
それこそが、今作の「カエル」になる。
このカエルは、俗に言う陰キャが陽キャを演じるようなキャラクターで、多分自分がやられると相当キツいだろうキャラクターになっている。
そのカエルの努力というかキャラクターは、周りからすると疎ましく、特にワニが死んだあとの話で登場するため、周りからすると、さらに厄介な存在なのである。
ただ、これがやらしいのだ。
何より、周りにもこういう人が山ほどいるからである。
悪い奴じゃないんだけど、空回りする奴。
不器用ながら頑張るんだけど、何やってもうまくいかない奴。
ここに共感して、自分たちの今に照らし合わせて、現実とリンクするかどうかなのかなと思うわけだ。
だからこそ、このカエルの存在、そしてその後のネズミやモグラといったキャラクター達のその後を描くことができる。
あの世界で、ちゃんとみんなが生きているという表現になる。
それは同時に、今の我々もそうなのではと思う。
コロナという状況で、簡単に人に会えなくなったり、制限がかかって、2019年以前の生活には戻れなくなっている。
前半のあの日々、そして後半の日々は、どこかこんなのんびりしている日々になればいいなぁと思ったのだ。
恋人と映画に行ったり(これは僕のせいですね)、花見をしたり、ラーメンを食べてまた行こうと言ったり。
映画は、どこか自分とリンクするからこそ、共感し、楽しむことができるものなんじゃないかと思う。
妙な間や、カットも、実写に近づけているからこそ、こう感じるものだろうなと思う。
僕は100ワニ、嫌いじゃなかったです。
むしろ、上田・ふくだ監督がうまく構成、キャストやスタッフも最大限の注力をした、観やすい映像作品だなと思いました。
りっと。
かいこ。
街を歩くと、この建物ってこんなんだっけ?と思うことが増えた。
近所を歩いていても、すぐそこの場所ですら、ここってコンビニだっけ?一軒家だっけ?となってしまう。
しかも確認する方法がないので、余計にむずがゆくなって、結果としてわかんねーなこれとポイっとしてしまうことが増えた。
また別の日には、些細なことで涙もろくなった自分に気が付いた。
昔から泣き虫だったけど、人前で堂々と涙を流せるようになったのは、ここ数年の話な気がする。
勿論、あれだけハスって避けていた鬼滅の刃も、劇場で観てマスクはびしょ濡れになったし、家で観る些細なドキュメンタリーでも簡単に泣くようになった。
挙句の果てには、車の中で音楽を聴きながら泣くこともあった。
我ながらドン引きである。
でも、これっていつからだっけ?と振り返ると、20歳を境にその傾向が強くなったように思える。
現代社会において、20歳は区切りの年。
昔で言うと元服のようなものだと思う。
僕らの年なんて、コロナ禍に巻き込まれたせいか、より人との繋がりが薄れたように感じて、些細な事でも泣けるようになったのかもしれない。
俗にいう懐古だ。
街を振り返る懐古、過ちを振り返る回顧、業績が悪化した結果の解雇、僕はそのすべてを一年で経験した。
解雇は正確には僕が体験した話ではない。
ただ、僕の目の前で、仲間だった人たちが大勢首を切られた。
思えば波乱すぎるオトナの幕開けだった。
当たり前が当たり前じゃなくなって、失ってからじゃないと気づけない。
失敗談を学ぶイソップ物語があるが、僕ら人間は実際に体験しないと分かろうとしない。
かなり遠回しな前置きになったが、先日「花束のような恋をした」を観た。
以前から言っているが、僕は恋愛映画がとても苦手なのである。
それは僕自身に強く反映されていて、目の前でイチャイチャされると、内心ぶっ飛ばすぞって思っているし、俺の女になれよみたいなセリフは、吐き気がするほど苦手である。
だから、その手の展開がある少女漫画も苦手だ。
うるせぇよばーかとなってしまう。
だから、正直この映画を観るのは勇気がいった。
周りが良作だったと言っていても、それは僕の基準からすると適応できない場合が必ず存在するからだ。
特に、人と恋愛の価値観がずれているが故に、共感するフリをするのが精いっぱいなのだから。
だから恋愛映画を観るのは本当に勇気がいる。
まして劇場で観るとなればよっぽどである。
だが、ここまでハスった結果後悔したことが山ほどあった。
だからここは経験に基づいて見るしかないと思い立つまで数日かかった。
劇場に入ると、最後の回なのに結構入っていて、周りはカップルよりも女子高生とか女子大生が多く感じた。
どころか、男一人なんて僕だけだった。
これやっちまったなぁと思いながら、席に座った。
幸い、両隣も前もいなくて、いるのは後ろにずらっと座ってるくらい。
後ろならまだ大丈夫かなんて思いながら、スクリーンのど真ん中、やや右側のVIP席を狙い撃ちした僕は、最高のポジションで映画を楽しむことにした。
映画自体は、なんてことない普通の恋愛ものである。
これ若者観た後に、インスタでエモいって言うんだろうなぁと思いながら見てしまった。
要所要所のセリフに、あぁ!わかるぞ~!なんてニヤニヤしたり、菅田将暉かっけぇ・・・とか、だよな!という共感が相次いだ。
⚠ここから先は、確実に一部箇所のネタバレが発生します、未鑑賞であればお気をつけください。
ただ、どこか違和感が転々としていた。
というのも、全く同じ状況でもなんでもないはずなのに、何か頭の中に引っかかった。
そして、その原因が分かったのが、お互いが社会人になる場面からだった。
見覚えというか、これ元カノとこんな感じですれ違ったな!と思ったのだ。
そこからは、席を立って帰るのが賢明なのではと思ってしまった。
はやく帰りたいとすら思った。
心のどこかで、冒頭のシーンに繋がって、またあるんじゃないかと思っていたが、さっくりと裏切られることになる。
なんやかんやあって、ヒロインが新しい仕事先の上司にアタックらしきことをした場面があった。
そこからは、地獄だった。
映画は観てるのに、頭の中じゃ完全にあの頃を思い出しているのだから。
やっぱそうだよな~なんて思いながら、見ていると身内の結婚式のシーンに移った。
そこで、お互い別れることを決意するのだが、この別れ方の演出が最高にブチ切れたくなったのだ。
これは脚本批判でもなんでもなく、本当に素晴らしい作品だった。
だからこそ、この作品はもう二度と見てはいけないと思った。
観た方は思い出していただきたいのだが、あの後、観覧車に乗る流れになった。
そしてカラオケ、ファミレスと転々とし、フラッシュバックシーンになる。
ここで、僕のHPは完全になくなった。
というのも、観覧車はその元カノに告白した場所だったし、ファミレスもカラオケも、とても思い出深いところだからだ。
こればっかりは、演出家を恨んだ。
そして、最高な演出だった。
麦くんとほぼ同じ行動をとったのだあの頃の僕は。
(結婚は言ってないけどね)
ただ、その頃の僕は本気でなんだかんだ結婚とかするんじゃないかなって思っていたし、別れたときはそれ相応にショックだった。
そのまま夜バイトに行って、顔が凄くてとても心配されたのは懸命に覚えている。
そして、ヒロイン側の回答が、何をやっても変わらないのはわかっていた。
だって、僕もそうだったから。
心の中で、麦くん無理だよそれは無理なんだよぉ・・・と呟いていた。
ファミレスの外に出てからの演出も素晴らしかった。
お互い別れることはこの段階でわかってるからこそ、キスはなしであの構図、あんなに悲しげだけど綺麗なショットはあるのかと思った。
ただ、ここから先の魅せ方はがらりと変わった。
ここ20分間ほどの辛い展開を、変えさせるようなテイストで、また最後に笑い合った二人を観れたことは、観客にとっても良かったのではと思う。
浮気の下りとかも、ちゃんと笑わせに来てるし、友達以上だけど、恋人未満に戻った二人。
この関係が最高にちょうどいいと思ってしまうのは僕だけだろうか。
そして最後の別れ際のシーン。
お互いに後ろ姿越しに手を振って別れる。
そういえば僕も最後は笑って見送った気がする。
未練なんて今となっては全くないし、お互い別の道、別の人と歩んでいる。
どこかリンクしていて、リンクしていない気もした。
劇場を出る際に、腰が重かった。
後ろの女子高生は、私彼氏と別れようかなー!
映画に影響されすぎやろ!ははは!と会話していたが、お前らのベクトルとは遥かに違うし、そんな会話してる時点で重さも違うだろと、心の中でツッコミを入れた。
そして劇場を出てからハッとした。
僕にとって2月は、様々な恋愛ごとのイベントや、特殊イベントが発生することの多い月だった。
元カノとも当然そうだったのだが、劇場を出ると、その告白した観覧車があった。
思わず、ここまでリンクすることあるか?
もう二年前の話だぞ!なんて思ってしまった。
念押しするが、未練はない。
どころか、おかげでちゃんと新しい道で正解だったと思えた。
思えば二年前、別れてから、心のどこかで敵対心があった。
よくルサンチマンとか、そういう言葉を使うのだが、ちゃんと僕は前に進んだぞと見せつけたいとすら思って、もがき続けた。
賞レースも、正直好きではなかった。
でも、何かで勝てば、自分の中で納得できる節ができる気がして、もがいた。
そこから、昨年のKCGアワードで佳作受賞。
ただ納得できなかった。
そこから、色んなコンテストに出た。
ただ、それでも賞は取れなかった。
なんというか、こんなに負け続けるのかとすら思えた。
いつしか、無冠の帝王とすら呼ばれていた。
制作していたゲームも、今回もコンテストで負けた。
流石に一次は突破してもいい作品だろうと思っていたが、あっけなく散った。
花びらのように散ったのだ。
だが、巻き返せるチャンスは残っていた。
結果として、昨年のアワードのリベンジマッチに成功した。
優秀賞を受賞したのだ。
そして、優秀賞を獲得したチームのみが行う本戦に出場し、そこでもプレゼンを行う。
最終的に、1チームのみが最優秀を与えられることになる。
プレゼンの順番も、申し分ないところを引いてくれた。
5番目、意地でもここが欲しかった。
戦略的なところもあるが、何よりも、僕にとってはここは、競馬でいうところのダービーや有馬記念レベルのグランプリレース。
そして、5番は、かの帝王ディープインパクトや、昨年の三冠馬コントレイルが、ダービーで背負った番号なのだ。
そして、この映画で、もう一度あの頃の見返したい気持ちを再確認することができた。
こんなにも、高校の頃から引き続いてきた流れがリンクするとは思わなかった。
正直驚いているが、流れが来ているようにすら思える。
全ての集大成を背負って、僕は来週、板の上に立つ。
「花束のような恋をした」
最高で最悪で、二度と見ません。
僕にはもう十分すぎたから。
りっと。
今年もお世話になりました。
お久しぶりです、りっとです。
9月あたり以来の更新ですね。
今日はただの挨拶なので、大したことも、最近書いてたエッセイ調でも書きません。
今年一年、あっという間でしたね。
人間二十歳までで人生の半分が終わるなんて言いますけど、ほんとに今年は早かった。
何より、4月5月の記憶がほんとに無い。
自粛期間中は基本家で制作してたし、バイト先は休業、映画館もどこも何もやってない。
そりゃ刺激も少なく淡々とすぎるわな・・・と。
皆さんはどうでしょうか。
かなりの方が、疲れた一年になったのではないかと思います。
僕も、全力で駆け抜けれたのか、駆け抜けきれなかったのか、とてももどかしい感じです。
ただ、今年の目標だった五作品以上に携わるという目標を無事にクリアしました。
思えば、年の頭、僕の上半期を揺るがす事故が起こり、波乱の幕開けになりました。
当初はこんなことになるなんてと思ってました。
別に犯罪に巻き込まれたとかそういうのではないんですけれどもね。
そして、これも去年だと思ったんですけど、今年の二月にKCG AWARDでの生配信。
このあたりから、コロナがマジでやばいんじゃないかみたいなね、そんな雰囲気が漂って、あの配信も何話したか覚えてないんですよね・・・。
今も配信されてるのかな?
で、そこからMelancholy rainの開発に移りました。
この期間は本当に様々な事が複雑に絡み合って、凄い精神との戦いになりました。
本気で車で近江大橋から琵琶湖に突撃したほうが楽なんじゃないかとか、そんなことも考えたりなんて時期もありました。
そういえば制作した作品のレポート記事って書くって言いながら一切書いてないんですよね。
Melancholy rainに関しては、自分の中で留めようと思って、非公開にしてるんですけどね。
で、BitSummitでの展示と、ゲームジャムか。
これも楽しかったなー。
生配信で自分の作ったゲーム映像が凄かったって言われたの嬉しかったなー。
そして、8月には、実写作品、美容師のデビューPVを作りました。
実はちゃんとカメラを持って撮影するのって、高校の文化祭以来なんですよね。
撮影の翌日両腕筋肉痛になったの今でも覚えてる。
色んな方々に見てもらえて、なかなかの評判を得られました。
久しぶりの映像がこんなにも認めてくれるんだと思いました。
で、10月。
バイト先が閉店しまして、色んな方々とお別れを迎えました。
結構な頻度でシフト入ってたから、今まで会えてた人が急にいなくなるとほんとに寂しいですね・・・。
そして、この10月にはECHOの企画がスタートしました。
これに関しては、少し前に記事を書いてたんですけど、現状手つかずになってます。
ちゃんと年が明けたら更新するんですけど、これもゆるく、それこそ演出とか、どうやって作ったのかとか、舞台挨拶のノリくらい軽く書いていってます。
でも、このECHOほんとに色んな思いが詰まってて、ゲームクリエイター甲子園であれだけの人に応援してもらえたことがほんとにうれしかった。
みんな見てくれたかな?
そして、今も新しいゲームのマネージャーとシネマティックアーティストをしながら、バイトと就活をするという、なんともな日々を過ごしています。
ほんとに、コロナがあって、今までできてたこともできなくなって、毎月のように地方に飛んでたのにそれもできなくなって、学校にも行けない。
それでも、沢山の人のおかげで、今年一年、頑張ることができました。
今、病気や仕事とかで、元気じゃない人も、来年また笑って会えるように祈ってます。
去年まではほんとに多くの人と、年代を超えた交流ができていたが故に、なんとも言えない一年になりました。
誰一人欠けず、また笑って来年会いましょう。
今年一年、本当にお世話になりました。
りっと。
タイムマシンと配達人
このブログを始めてから1年と3か月ほどが経った。
始めは、このブログの一番初めの記事である、「カメ止めの舞台に行ってきた話」を纏めるだけだなんて思っていたけれど、気が付けば20本近く記事を書いていたらしい。
たまに、アクセス数とか見たりするのだが、初めの頃よりもアクセス数が少しずつだが伸びてきている。
大半は僕のTwitterから、こちらに飛んでいる方が多いようだが、中には検索欄からヒットさせる猛者もいるらしい。
人気記事みたいなランキングを見ると、一番上に来るのはまさかの夏休みのことについて書いた記事だった。
内容を見返しても、大したことは書いていないし、どこがヒットしたんだとしか思えなかった。
もしかすると、CEDECに行ったよっていう中身のない話をしてしまって、CEDECで検索を掛けた人がこのブログに辿り着いてしまったのかもしれない。
だとしたら、時間の無駄であったことをとても申し訳なく思うが。
過去のブログを見返していて、圧倒的に文の書き方が変わった。
当初は、どこにでもあるブログみたいな感じで、分け隔てなく適当な文章だったが、最近は完全にエッセイを書くように、比較的まとまった内容を書いていた。
「(笑)」とかが一切ない、そんな文章になっていたり、この頃はこんなことを思っていたのかなんてことを思いながら読み返した。
以前のツイートで、こんな黒歴史ブログはいつか絶対に消してやるなんて言ったけれど、今見返しても、所々本当に当時の自分を殺したくなるような文章を書いていた。
戒めとして、今でも残しているのだが。
そもそも、ここまでブログが長続きしたのも、もしかすると、自分の中での気持ちの整理の方法なのかもしれない。
なんか以前も誰かに話したり、書いたような気もするのだが、よく、「一度話す前に頭の中で整理してから話しなさい」とか、「文にすると、意外とこう思ってるんだなって分かるよ」とかってのを、聞くことがある。
かくいう僕も、文字に起こしてみると割とスラスラ出てきたりして、結構毒抜きになったりするのだ。
僕の場合、日記をつけたりするのがとても苦手で、アナログ媒体に書き込むとなると、それを見返した時に、自分自身が描いたということが丸わかりで、とても恥ずかしくなって見れなくなってしまうのだ。
逆にデジタル媒体であれば、自分が書いていても、機械的な文字なのでそんなにダメージはなく、むしろ客観的に見ることができる。
当然前述の通り、結局は自分が書いていることに変わりはないので、自分に対する嫌悪感は少なからず出るのは確かなのだが。
似たようなもので、昔野球をやっていた頃、野球ノートというものを作ったことがある。
元々サボリが常習化していた人間だった僕は、長続きするのがとても嫌ったのだが、これだけはちゃんと続けた。
とはいえ、所々抜けはあるけれど。
野球ノートの中身は、その日の練習で注意されたことを書いたり、感想だったり、打席の結果なんかを書いたりしていた。
毎回父親に見せるのだが、大体四分の一くらいで怒られる。
字が汚いとかは勿論、内容も足りていなかったり、何回注意したら気が済むねんなんて言われて殴られた。
今思えばとんでもなかったななんて思うが、当時はそれが普通だと思っていて、他の親はなんで自主練させなかったり、こんなに激甘なんだろうなんて思っていたくらいだった。
今となっては、この野球ノートも、思い出の一ページで、別に振り返ることもないのだが、アナログで書いていたからこそ、色あせるものがある。
こう考えると、もうあれから10年以上経ったんだと思った。
今となれば、土日は競馬をして父親とテレビの前で叫んでハイタッチをしているくらいだから、当時じゃ考えられないことだった。
ある意味、ブログも野球ノートも、タイムマシンなのかもしれない。
昔と今の自分を繋ぐ、それも自分の考えを繋いでくれる、思い出とは少し違うピースだなと思うわけだ。
昔は車酔いが激しくて、15分乗ったら酔っていた。
今は車酔いを克服して、ドライブしながらラジオを聞いている。
ドライブしながら、音楽も流さずにひたすら誰もいないのに、一人でラジオのようにしゃべり続けるなんてこともある。
結局、その一瞬に思った考えなんて、すぐに忘れてしまう。
どうでもいい話なんかは、車の中で、一人で消化して、使えそうなら友人との話のタネにして、それ以外のものは、ブログやノートに頼って、未来の自分に届けてもらう。
最近エッセイ本を読んでいて、エッセイを書ける人はそれなりに感受性豊かで、不満や喜びをいっぱい抱えている人だと思った。
そういう人ほど、生きづらかったり、もがいて苦しんだりして、少しの幸せを感じているように思える。
考えを伝えるタイムマシンは、もしかすると、自分に少しの幸せを届けてくれる、配達人でもあるのかもしれない。
りっと。
たりない奴と天才
以前、高校の頃の同級生から連絡が来た。
このブログを読んだことがある方はわかる通り、これまで散々しくじってきた自分に連絡をしてくる奴なんて、よっぽど肝が据わった奴しか連絡してこない。
連絡をしてきたのは、高校時代のダンス部で、同じクラスになったことがあった奴だった。
僕の学校は、二年生から専門選択制になり、一部教科を選択して履修する、まさに大学みたいなスタイルだった。
そして、履修した授業でそいつとは一緒になったり、なんだかんだ話す機会が多かった。
その同級生が連絡してきたのは、今度美容師としてデビューするから、そのPVの撮影と編集をやって欲しいというものだった。
僕は取り敢えず内容を聞いて、二つ返事で快諾した。
とはいえ、実際に会って話して、何をどういう風にしたいのか、平たく言えばクライアントのイメージを聞く必要があった。
そこで、母校の近くのファストフード店で待ち合わせて、高校卒業ぶりに会うことにしたのだ。
車で向かいながら、僕の頭の中は不安でいっぱいだった。
そもそも、ギャラが出る撮影案件は初めてで、しかも撮影自体久しく行ってなかった。
加えて、授業でやるような風景のみでのPVとかではなく、被写体がいて、誰の助けもなく一人で完成まで持っていかないといけない。
更には納期だ。
相場がどれくらいなのかは分からないが、このミーティングの時点で、既に2か月を切っていた。
時期的にも、課題に取り組んだり、テストを受けるタイミングなので、あまりにもヤバかったら引こうというのが正直なところだった。
いざ到着すると、母親から車のキーを受け取り忘れたまま出発してしまったため、運転できても、鍵を閉めてどこかに行けないという状況になった。
結局、母が別の車で向かってきて、鍵を渡してくれたのだが、これはとんだ失態である。
幸先悪いスタートだなぁなんて思いながら、僕は今回一緒に仕事をすることになる同級生と話していた。
とはいえ、久しぶりなのと、既に彼はダンサーとして、成功している部類の人間なので、僕は正直心許なかった。
だが、そんな僕とは裏腹に、流石HIPHOPの男である。
ただ久しぶりの友達と会うように、気軽な挨拶から、他愛もない話をし始めた。
僕はそれに触発されるように、高校時代の自分を重ねるように話すことができた。
少し世間話をした後、具体的にどうしたいのか、どんな感じがいいのかを聞いてみた。
予め、僕の専門はカメラワークであることを伝えた上で、よくある3DCGやド派手なエフェクトには対応できないということは伝えた。
色んな要望を聞いた上で、こちらからこんな感じで、こんなの入れるとこんな感じになってかっこよくなるのでは?と、企画マンのように提案していく。
そんなこんなでかれこれ1時間ほどで、制作の話は纏まった。
いつの間にか、諸々の不安は吹き飛んで、やれるという自信に変わっていた。
それもこれも、すべてはこの同級生のおかげだ。
制作の打ち合わせの中で、こんなやり取りがあった。
「半年でデビューするのは、俺の腕がいいから。」
なんでこんなに自信があるんだと内心思った。
どうやら、美容業界では、見習い期間と称して、シャンプーとか、サポートに回る期間が大体2年とかあるらしい。
長い人はもっと長かったりするようで、その中でも半年というのかなり早いそうだ。
確かに、他の同級生で美容業界に進んだ人は、未だにカットデビューしていないように思える。
ただ、だとしても普通は、「いやー、まぁ運がよかった」とか、「たまたまいけちゃってさ!」みたいな事を言って謙遜するものだと思うが、今回は違った。
その自信はどこから出てくるんだと聞いてみると、
「例えば、自信ないとか、普通の人に髪の毛やってもらうのと、俺めっちゃ自信あるし、俺が切ったら絶対かっこよくなる。って人、どっちに切って貰いたい?」
なるほど、確かにそうだなと思う。
続けて、自分にそれだけの力があるって思ってるけど。
と、前置きをしたうえで、「何があっても、自信を持ってないと弱く見える。」
高校時代から、ずっと光ってたコイツは、天才だったんだなと思った。
美容学校でも、成績はあまりよくなくて、むしろ下の方だったらしい。
それも、日本髪とか自分がやりたくないもので、その他のやりたいことに関しては、ちゃんと成績が良かった。
だから好きを伸ばそうと思ったみたいなのだが、こういう考えをする奴って、周りにどれくらい存在しているのだろうと思った。
でも、考えても答えは単純で、結局そんなに考えなくていいやと思っているのが大多数なのだ。
高校時代、光ってた奴は、こういうマインドを持ってたから、周りはついていったんだろうなと改めて実感した。
その後も他愛ない話は続いた。
高校時代に、クラスで映像を撮った話や、部活動の話、同級生の話。
かれこれ2時間くらい話していた。
久しぶり会った旧友との会話はとても弾んだ。
制作することも、企業案件なのでお金を頂くことになった。
僕は何度もアマチュアだから貰えないと断ったが、どんなに少なくてもそれは受け取ってくれと言われて受け取ることにした。
お金を受け取るということは、遊びじゃない。
受け取らないことで、僕は逃げ道を残そうとしていたのかもしれない。
本気で、仕事をやらねばならないことを実感した。
僕は彼に言われたことを思い出して、こう言った。
「俺の作る映像は間違いなくイケてるから任せとけ」
別れ際、HIPHOPのカッコいい挨拶を二人でやった気がする。
美容師とダンサーをやる天才と、社会性が欠如したたりない奴は、高校ぶりに、二人で作品を作ることになった。
そこから先の話はまた近いうちに。
りっと。
考えすぎ注意報
昨年の秋から止まらなかった制作や、その他のお仕事がガクッと減った。
それは昨今の世間情勢というか、自ら望んで減らしたというところもある。
自分の中で、これが終わればしばらく休むという期間を設けたかった。
というのも、自分が今まで走り抜けてきた中で、色んな楽しいことや辛いこと、しんどいことも重なって、一度しっかりと気を抜きたかったのだ。
ゲームなんてロクに遊べてなかったし、映画も一時期全然見られなくなって、自分でもどうしたんだということになったこともあった。
今でこそ、数日に一回のペースで更新するようにしているTwitterも、前みたいな些細なことを呟くことはなくなってしまった。
そうして”休む”と決めたBitSummitの閉幕から一か月が経った。
今年ももう8月まで来てしまったななんて思いながら、過ごしていると、Facebookの通知で、「〇〇さんもっと友達を増やしませんか?」なんて通知が来る。
煽ってんのか!と思いつつ、バナーを閉じて、期日までに決められた課題や作業をこなす。
そして、飽きたら色んな映像作品を見て、バイトに行って、帰ってきたら飯を食って寝る。
そんな日々が続いていた。
そうしてある時、気づいてしまった。
これ全く休めてないぞということに。
そもそも休むって何なんだ!なんてことを考えてみた。
今までの休みってなんだ!!!!
映画館に行くことか?
遠征に行くことか?
野球をするのか、トランペットを吹いたり酒を飲むことか?
色々考えてようやく気が付く。
今まさにこの考えることが、全て僕の休むという行為を妨害していると。
確かによく考えてみればそうだった。
遠征に行くのも、確かにその場その場の目的はあるけれど、結局はその目的に駆られて、くだらないことを考えることはなくなったし、映画館で映画を観るのは、家だと別の方向に興味を持って映画を止めてしまうからだ。
謎が解けた!なんて考えていると、多分僕がラジオを聴くのは、そうした現実から目を逸らせる現状の最強ツールかもしれないなんて思った。
というのも、僕はこの日、滅多にしない外食をして、夜どこか忙しい気持ちを抑えて電車でラジオを聴きながら帰っていたのである。
外食したのは、元々誘われていて、日程もあって行ってきたのだが、帰りながら、「うわ~~~しくじった完全にハスった・・・」
と思いながら帰宅していたのだ。
以前のブログで、場所によって自分の顔を切り替えているという話をした気がする。
だが、その場で作った顔を自分から剥がしてしまったと同時に、尖ってたねって言われた時の恥ずかしさときたら半端じゃない。
しかもその時って、自分でも尖りをあまり意識してない平常運転だったはずだからこそ、余計だったのだ。
その場は笑ってごまかしたが、やばいやばいと内心ずっとヒヤヒヤしていた。
昔から人の目をとても気にするし、女の子が固まっていたらとんでもなく怖いし、最近なんて電車で席に座っているときとか、どこ見とけばいいんだなんて思う。
電車内広告なんて、まさに僕みたいな人種のために存在するんじゃないかなんて思うし、周りに女性が座っているときなんてよっぽどだ。
だからこそ、ひえーって思いながらその食事会を過ごした記憶がある。
少人数とはいえ、この僕の特性だけは、りっととして活動して、ブログを読んでくれる人のみに明かしたいものだった。
挙句、最近話がうまいよねって言われることも多くて、内心これは結構面白く話せるんじゃないかなんて思い始めていた。
だが、僕の出す話は男にはウケが良くても、女性にはウケが悪いのだ。
ラジオだとどうしても長く話して展開するし、僕も影響されて長く展開させて一気にケツで落としてって話をするので、長い話が苦手な女性には相当ウケが悪い。
そんなこともあって、更にこのことで考えてしまった。
多分、僕という人間は深く自分の中で考えないと生きていけない。
それ故に、主にバイト先の上の方からは、学生でここまでの考えを持っているなんてすごい!とか言ってくれるけれど、ちっともよくねーよ!としか思えない。
おかげで、業務外でも色々考えるようになってしまったし、あれってこうだけど、実際どうなんだろうとか、目的がないとこうも僕は深く考えてしまうのかと心底落ち込んだ。
昨年までは、気分転換にどこか行くかーとかできていただけに、大きいイベントが作れないのが惜しい。
自宅だと、何をやってもそういったことは連想してしまう。
まさに闇のデススパイラル。
沼にはまっているのだ。
そんなとき、少しだけわかったことは、お金を使うことは、時間を買うことになるということ。
20歳になってから、馬券を買えるようになり、毎週暇があれば楽しんでいるのだが、この時間だけは何もかも忘れられる。
お金を儲ける目的ではなく、お金が儲かることを想像しながら応援して観戦するのが楽しいのだ。
だから実際、先週のクイーンSも、万馬券を的中させて嬉しくはあったが、お金を儲けて嬉しいわけではなかった。
土日にバイトなんてしてる日は、働きながら、「あー、この時間なら阪神10Rだなぁ。俺の軸馬来てるかなぁ」なんて考えてれば、すぐに仕事の時間は過ぎて別に考えることなんてない。
要は、何か目的がないとこう考え続けてしまう。
結局休まずに、何か目的を持って、それが自分に可視化されるものでないといけない。
僕にとって、休まないことがどうやら休むことだったみたいだ。
つまり、僕にもう二度と、長期休暇という休みはやってこない。
長く休むと、心も体も疲れちゃうから。
ブラックなのは、ある意味幸せなのかもしれない。
りっと。