少し昔の話。
りっとの部屋4月号です。
2月頃に、なんかコロナ下手すりゃやべーぞってなり、3月には自粛要請が出され、4月には緊急事態宣言で完全自粛が求められる。
日常の移り変わりとは早いものです。
気が付けば、かれこれ約一か月は映画館に行ってないことになります。
専門学生一回生の夏から、月に3回は絶対に映画館に行ってて、今年に至っては既に20ほど行ってました。
映画館に行かなくなってからと言うものの、映画館で使ってたお金がドサッと無くなったので、こんなに給料ってあったのかと実感しました。
加えて、プロ野球も、各種イベントもなくなったので、遠征費がまるごと浮いたのもデカいです。
今までやってこなかったアプリ内課金とか、ちょくちょく新作ゲームとか資料とか、そういうのが普通に買えることに対して、ちょっとした喜びを感じております。
さて、前置きが長くなりましたが、今日は久しぶりに少し真面目テイスト強めでいきます。
テーマは”日常”で、僕の高校時代に行ったとある活動をメインに書いていこうかと思います。
・ザクっと自分の過去を振り返る
ということで、ザクっと過去何をしていたかを簡単に誰でもわかるようにまとめますと、
・高校時代は、野球部で勉強もそこそこやった(偏差値低いけどね!)
・その頃から何かを作り出すことがやりたかった(今に繋がってる)
・何より、こじらせた自意識が、当時の自分を作り上げてた(これはよくない)
詳しいことは過去のブログに書いてますので、こちらを読んでいただけると。
大体これら記事を読めば、なんとなく僕を知ることができるのではと思います。
で、母校の高校名を直接出すわけじゃないんですけど、載ってる写真を漁れば、普通に学校名出てくるんですよね。
何か起きると取り返しがつかないので、直接的には語りませんが、今回はその学校に居たときに、とある活動をしまして、そのことについて触れていきます。
・きっかけは東日本大震災
そもそも、事の始まりは、3.11。
東日本大震災が引き金になってます。
この震災が、おそらく直近の日本だと多くの人の日常を奪ったことになるのではないかなと思います。
で、当時りっと少年は小5。
うちの高校では、東日本大震災が起きてすぐにボランティアに向かったみたいです。
多分ネット探せばゴロゴロ出てきます。
一年に一回のペースで、当時のテレビの取材ビデオを流されて、見た記憶があります。
で、当時の高校の学習システムが、普通科総合選択制といういかにも怪しい学科でして。
簡単に言うと、通常の授業(現代文とか数学とか)に加えて、自分のきょみを持つ分野(確か7分野くらいある)を学ぶ、エリア学習っていうのがありました。
中身としては、スポーツ専攻の授業だったり、進学を考えた文理別の授業、PC技術を学ぶ授業とか、要は固定化された授業に加えて、大学の専門授業の枠、加えてエリアの授業があるというちょっぴり変わった学校だったのです(公立だけどね)
僕はその中の、国際理解エリアってとこに所属してました。
全て消去法で選んだので、別にこれといって選んだ理由はないんですけど。
僕の選んだ国際理解エリアでは、上記のボランティア活動とか、海外文化、無論英会話だったり、時事問題とか、そういったことを学んだわけです。
募金活動なんかもやりました。
放課後、途中まで部活の練習に出て、そこから最寄りの駅に行って、募金活動するって感じです。
国際エリア担当の先生が、完全に野球部の広報的位置にいて、野球部顧問とグルグルだったので、エリア授業はほんとに手が抜けなかったが故にこういったのも真面目にやりました。ええ、真面目にやりましたよ。
既に震災から5年ほど経ってて、ニュースでも全くやらなくなったご時世に、本当に集まるのかと思いながらやってましたが、意外と集まったんですよね。
入れてくれるのは、やっぱり少し歳がいってる人だったり、50代くらいのマダムだったり、様々ですけど、びっくりしたのはお札ばっかりなんですよね。
あれだけは、本当にびっくりした。
部活やってるときは、特定の時期を除いてバイトはやってなかったので、ほんとにすげぇって思いながらやってました。
で、この募金。
ここまでの書き方だと、被災地に届けると思った方が大多数だと思います。
これ、実は被災地には届けてないんです。(突然のカミングアウト!)
あ、当然入れてくれる人には説明してますから詐欺とかじゃないですよ。
これ、毎年春に、気仙沼と登米の高校生を大阪に呼んで、野球交流するという活動に回されるお金になってました。
実際の写真は法律上グレーなので、こちらのサイトを見ていただければ。
http://www.osaka-c.ed.jp/hokusetsutsubasa/network/index.html
今となっても二度とやらないであろう、りっとの坊主写真がどこかにあるよ!
全体写真から探してみてね。
・親善交流を通じて
で、この気仙沼・登米高校野球親善交流当然ながら、国際エリアは強制参加です。
しかも、僕野球部なので普通にグラウンド運営も、試合も普通にこなすわけです。
東北からの高校生は、バスで大阪に向かってきて、宿泊先は学校付近の集会所とか、ホストファミリーの家に泊まるって感じです。
期間もトータルで三日ほどなので、ホスト側もいい経験になるというわけです。
学校付近は住宅地で、スーパーとかいろいろ揃っていて不十分なことはほぼありませんからね。
国際エリアの仕事は基本的にホスト宅と高校間の送迎です。
徒歩だったり、少し遠いと自転車だったりもしますが、国際エリアの人にとっては、触れ合えるチャンスってそこしかなくて、色々話してる人が多かったイメージがあります。
でもやっぱり気を使っちゃうものです。
無意識に震災の話を出すのはタブーですからね。
仲良くなった人とは、LINE交換したり、SNSフォローし合ったりって人が結構いたので、打ち解けるのは早かったですね。
僕はその時、レギュラーとして試合に出ていたので、アンダースロー凄いなとか、当ててごめんなさいみたいな話をしたのを覚えています。
↓大体の中身はこんな感じです。↓
http://www.osaka-c.ed.jp/hokusetsutsubasa/club/baseball.htm#20170325_kesen_tome
野球をすることが普通に楽しかったので、こういった交流試合は普通の練習試合よりも気が抜けて楽しいものです。
ギャラリーもやっぱり公式戦以上に集まったりもしましたし。
でも何より、東北の高校生めちゃ元気だったんですよね。
過去にそういう出来事があって、苦しんだ人も多い中で、めっちゃ面白かったんですよね。
今、コロナウイルスの影響で、僕らが普段過ごしていた日常にはおそらくもう戻れないと思います。
よく行ってたお店は潰れて、活気はいつの間にかなくなってて、人は皆怒りっぽくて。
SNSを見れば、政治とくだらない論争ばかり。
映画館もいろんなキャンペーンでなんとか保ってるとはいえ、中には一度も行けずに閉館する映画館もあると思います。
でも、壊れた日常の先には、新しい日常があると思いますし、それをクリエイトするのは皆さん自身じゃないかなと思います。
今になって思いますが、東北の高校生は、ウイルスよりも遥かに多くのものを一瞬で奪い去りました。
中には、マックなんて津波でなくなったし、行こうと思えば一時間かかるなんて話もしました。
でもそんな状況でも、笑顔で野球でつながれたことが本当に良かったと思います。
僕自身、大きな震災といえば、二年前に起きた大阪北部地震とか、新型インフルエンザくらいで、僕にもたらした影響自体はそんなに大きくなかったんですよね。
学校も臨時休校に数日ほどしかなってないはずですし。
ただ、僕にとっての難関はここからで、間違いなくやってくる就職難の波と戦わなくちゃいけないんですよね。
今、水面下では大型プロジェクトが数個動いてる状態です。
今年の夏以降に告知出せるものが多いですが、皆さんの中には嬉しい告知になるものもあると思いますので、Twitterとかフォローしていただけるとありがたいです。
長文読んでいただきありがとうございました。
多分今週中にもう一本更新します。
りっと。